宇部市の経済を支えた「渡邊祐策」とはどんな人物だったのでしょうか?2025年4月20日(日)「渡邊祐策生誕160年記念企画」の開催と共に「渡邊祐策」の歴史を少し紐解きました

2025年4月20日(日)宇部市渡辺翁記念会館にて2025年4月20日(日)渡邊祐策生誕160年記念企画 「交響曲 渡邊祐策 同時講演 戯曲 渡邊祐策物語」が開催されます。

宇部市に鎮座する渡辺翁記念会館。 その名前にもなっている渡邊祐策について調べ、まとめてみました。

はじめに

渡邊祐策が病気でこの世を去ったのが1934年(昭和9年)。70歳の時です。

その後1937年(昭和12年)、彼を顕彰するため、日本一のものを創ろうとした結果が渡辺翁記念会館でした。

後に合併して宇部興産となる7つの会社によって組織された「渡辺翁記念事業委員会」が当館を建設し、宇部市へ寄贈する形で開館しました。広場の縁には、渡辺翁の銅像を中心に関係社を象徴する柱が並びます。

2005年12月には国の重要文化財に指定されました。宇部市の貴重な文化遺産であり、芸術文化活動の拠点施設です。

宇部興産グループ創業者

(渡辺 祐策、わたなべ すけさく/ゆうさく[1]元治元年6月16日1864年7月19日) – 昭和9年(1934年7月20日[2])は、日本の実業家政治家立憲政友会)。宇部興産の前身冲ノ山炭鉱組合の創業者。

Wikipedia(ウィキペディア)引用

幼少期

1864年(元治元年)、宇部村(現 宇部市)で國吉恭輔(その後、福原家家臣邊詠蔵の渡邊家を継いだため、渡邊姓となる)の次男として生まれます。

祖父に当たる國吉藤輔が周辺集落一体を焼き尽くす火事を起こしたために財産を失い、生活は苦しかったそうです。

岩国の陽明学者 東沢瀉(ひがしたくしゃ)の私塾で学ぶ

14歳で父恭輔が他界したため渡邊家の家督を継ぎました。

岩国の陽明学者・東沢瀉(ひがしたくしゃ)の私塾で学びます(西の吉田松陰、東の東沢瀉と呼ばれていた)

教師を目指す時期もあったが女子中心の家族を養うため家業への専念を余儀なくされたそうです。

炭鉱事業に歩みだす

そんな中、祐策は先輩から上宇部村の戸長役場用掛の仕事を紹介されました。

1883年(明治16年)5年の役場勤務を経て退職し、次第に炭鉱事業に着手していきます。

宇部市の発展に貢献

1888年(明治21年)に宇部達聰会宇部達が設立され、その委員(書記)となりました。

1897年(明治30年)、宇部興産の源流となる沖ノ山炭鉱組合を創業。

炭鉱経営を軌道に乗せると「埋蔵量に限りのある石炭を掘り尽くす前に、その富を無限の工業に転換しなければならない」との考えから

炭鉱経営で得た資金を元に宇部新川鉄工所(後の宇部鉄工所)、宇部紡績所(後の宇部紡績)、宇部セメント製造、宇部窒素工業、宇部電気鉄道(現在のJR小野田線)、新沖ノ山炭鉱などの企業を次々と設立。

また、教育機関や鉄道、道路、上水道、港湾等の社会基盤を整備し宇部村発展の基礎を築きました。

政治家として

1912年(明治45年)には第11回衆議院議員総選挙で衆議院議員に初当選し、その後4選を果たし立憲政友会山口支部の初代支部長などを務めました。

田中義一内閣の組閣時には入閣の打診があったが、「(田中義一)大将の御志はありがたいが、いま、自分には地方に大事業をかかえているので、ただちに中央にでかけるわけにはいかない」として大臣就任を断ります。

まとめ

渡邊祐策が残した沖ノ山炭鉱、宇部鉄工所、宇部セメント製造、宇部窒素工業は、祐策没後の1942年(昭和17年)に合併して宇部興産となり、現在も宇部市の経済を支えています。

祐策は事業の収益を自分の為だけでなく宇部のまちづくりに生かし、企業と地域が共存し同じように栄える「共存同栄」を目指しました。

渡邊祐策の功績を記念して1937年(昭和12年)4月に建てられた渡辺翁記念会館は、西日本でもっとも歴史のある音楽ホールの一つであり

東京駅も手掛けた建築家村野藤吾の出世作にもなった建造物です。

日本におけるモダニズム建築の代表作のひとつとして、建物は重要文化財に指定されています。

参考文献/ウィキペディア